イギリスの聖職者ロナルド・ノックスは、推理小説のルールとして、「ノックスの十戒」を掲げました。
曰く犯行現場に秘密の通路が二つ以上あってはならない、未発見の毒薬を犯行に用いてはならない、探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない……。
「ノックスの十戒」はユーモアで作られたという説もあります(第5条などは明らかにそうです)。しかし、推理小説家が読者に対してどのような態度で臨んでいたのか、その精神的な態度を見出すことは可能です。
それは、作中の探偵と読者に対し、可能な限り同一な舞台を整えようという公平の精神です。
推理小説はやがて漫画に舞台を移し、推理漫画というジャンルを生み出しました。媒体は変わっても、読者との知的な闘いを愉しむという伝統が、確かに受け継がれていると思える作品はいくつもあります。
「Q.E.D.-証明終了-」は、そうした伝統的なミステリの文脈を受け継ぎつつ、幅広い題材と高い社会性を両立する、非常に優れた“推理漫画”です。
1990年代の推理漫画ブーム
「Q.E.D-証明終了-」の連載開始は1997年の月刊少年マガジン+。現在は掲載紙を「少年マガジンR」に移し、新シリーズ「Q.E.D.iff-証明終了-」の連載を継続する長寿作です(2019年1月現在)。
2009年にはドラマ化もされるなど、ファンからの根強い人気があります。
Q.E.Dが連載を開始した1990年代は、推理小説のメソッドを踏襲した様々な漫画が展開されており、いわば推理漫画ブームと言える時期でした。
週刊少年マガジンでは1992年に「金田一少年の事件簿」の連載が開始。外界との通信を絶たれ孤立した空間や、村落のオカルティズムを題材とした連続殺人など、いわゆる「本格派」推理小説に近い作風で一世を風靡し、推理漫画ブームの先駆けとなりました。
また、週刊少年サンデーでは1994年には「名探偵コナン」が連載開始。殺人事件の捜査に加え、黒の組織と呼ばれる犯罪集団との対決や、サンデー伝統のラブコメディを取り入れた斬新な作風で、一部の愛好家の嗜みであったミステリというジャンルを老若男女に広めました。
大小さまざまな推理漫画が、各雑誌で連載されては終了するなど華やかな時代の最中、高度な論理と、数学・物理・生物・社会等広い題材という独自の持ち味を発揮したのが本作です。
「殺人事件の少ない推理漫画」
探偵役を務めるのは燈馬想(とうま そう)、MITを15歳で卒業後、日本の高校に転入してきた現役高校生です。
パートナーは水原可奈。燈馬の同級生で、日本の文化や情に疎い燈馬を体力と行動力でサポートする、いわばワトソン役です。
二人が何らかの事件に遭遇し、可奈が各所に足を運び聞き取りをすることで証拠を集め、燈馬が状況の分析をする。
謎を解く条件が十分に整うと、「Q.E.D」の文字が現れ、以降は事件の真相を明らかにする解決遍が始まります。
燈馬と可奈のコンビが、学校、日常、アカデミー、はては国家間に至る、様々な謎や事件を解決するのが、本作の基本的なパターンとなります。
本作の特徴の一つとして最も多く指摘されるのが、「殺人事件の少ない推理漫画」という点です。
例えば、大学の研究室で製作された人工生命クランの流出を巡り、MITの同級生と共にCIAと情報戦を繰り広げる『ヤコブの階段』(コミックス第4巻)、人間によく似たマネキンが都内各所で無残に破壊される連続"殺人"事件を追う『人形殺人』(KC30巻)など、様々なバリエーションに富んだ事件が繰り広げられます。
燈馬と可奈は、殺人事件を解決する捜査一課のポジションに立つわけではなく、解決の難しい事件の論理的な収拾を図るという、いわばトラブルシュータ―として活躍します。
したがって、本作における解決遍とは、一般的なミステリとはやや異なる意味を持ちます。
第一に、「これまでに明らかにされた証言やヒントから読者がいかに犯人を見抜くか」という推理的要素。第二に、「燈馬と可奈がいかに事態を収拾するのか」という問題解決的要素です。
真相解明だけが役割でない 「推理」と「解決」の両立
Q.E.Dが他の作品よりも優れているのは、この「推理」と「解決」という2つの要素を非常に高い水準で両立させていること、それこそを「知性」の在り方として描いている点です。
MITを首席卒業した燈馬は、高度な論理的能力を持っています。三段論法や帰納法、演繹法を用いて事件当時の状況を再現します。例えば「今回の犯行が起こり得るにはpという条件が必要である」。「pならば必ずqである」、「容疑者Aはqでない。ゆえにAは犯行を行っていない」、など。(殺人事件などを解決して警察による逮捕が行われる場合は、さらに物的証拠が提出されます)
しかし、論理的な推理は、それが正確である程、時に当事者たちを混乱させ、受け入れがたい現実に直面させることがあります。真相を解明するだけが必ずしもハッピーエンドを招くわけではありません。これは本作全体に通底するテーマであり、特に連載中期以降前面に出されています。
その最も象徴的なエピソードは『魔女の手の中に』(KC10巻)でしょう。
大学時代の燈馬のエピソードであり、アルバイト先の検事アニーとの関りを通した法廷劇と、MITの友人エドの研究の二本の筋が交錯しながら進みます。
中世の魔女裁判の歴史、MITにおける才能のあるものとないものの光と闇、二転三転する陪審裁判の行方等、複数のモチーフが現れながら、真のテーマはまた別にあります。
自分の助力を歓迎する者とそうでないものに関わった結果、最後には互いにまったく逆の結果を生んでしまったことを悔やむ燈馬に対し、自身の才能を使うことが人の幸せに繋がると諭すアニー。真相の解明だけが事件の解決方法ではないという作品のテーマが、才能はあっても幼い少年の成長とともに描かれています。
以降のエピソードでは、事件解決の「落としどころ」が強く意識されていき、直近の『信頼できない語り手』(Q.E.D.iff11巻)にも見ることができます。
ソクラテス、プラトンの知
人々を真実に導くはずの知識が、やがて人心を操作する技術に特化し、本来の目的を失っていく。やがて、知識を持つ者を崇めていた人々が、尊敬の念を憎悪へと転化させ、新たな暴力を生む……。これは、西洋の賢者の祖であるソクラテスの時代から伝えられる悲劇です。
かつてプラトンは、真実を認識することを「洞窟の中の囚人たち」で譬えました。学ぼうとしない人たちは「洞窟の奥に繋がれて、影絵しか見ることができない囚人」である。プラトンによれば、知とは、自らを繋ぐ縄をほどき、洞くつから光の世界へ解放されることです。自分たちの見ていたものは陰に過ぎず、光の世界で目を開いていられるようになるには、長い時間が必要です。
プラトンの考えに従えば、真実はただ暴かれれば良いのものではありません。そこには段階と順序が必要であり、時間をかけて光の世界に連れ出せるものが本当の賢者であり、燈馬と可奈の二人が目指す“探偵”であるのかもしれません。
以上のように、Q.E.Dにおける推理/問題解決は、真相の暴露に留まらず、真実を段階的に受け入れるという「普遍的知性」に近い意味があります。
そのため、作中で扱われる事件の範囲や題材は、政治、法律、心理等非常に広範囲に渡ります。
数学というテーマの背後に見える人間の心
とりわけ、最も専門的に取り扱われているのが数学で、本書が「理系探偵漫画」と譬えられる所以といえます。
MIT教授による、元助手からの執拗な妨害に悩んでいるとの相談から始まる『デデキントの切断』(KC15巻)。リーマン予想の解を予言した数学者の失踪と数学の深淵を描く『アナザー・ワールド』(KC23巻)、ポアンカレ予想に魅せられた天才の行く末を追う『エレファント』(29巻)等枚挙に暇がありません。
しかしながら、Q.E.D.が面白いのは、数学をテーマにした事件を取り扱っているからというわけでは、もちろんありません。数学はあくまでモチーフの一つであり、背後には別のテーマが控えているからです。
例えば、大学の研究室というアカデミーの世界。
燈馬の友人であり、MITの同級生であるロキからは、学生や院生の研究成果を教授の名義で発表し、功績を譲る代わりに研究機材を融通してもらうという慣習が語られます。
ロキに言わせれば、日本の官僚が人文学系の卒業生で占められているために、理系学部出身者が評価される構造が無いとされます。そのため、日本の、特に理学部出身者の扱いが悪く、優秀な研究者が海外へ流れてしまう……。
研究費、学会内政治、国や家族からの支援、様々な事情の中で、才能が有っても身を引かざるを得ない者、すでに力を失っているにも関わらず席から降りることができない者……、ノーベル賞を始めとする華やかな世界の裏側には多くの闇が蠢いており、時に殺人事件よりも残酷な現実が、淡々と描かれています。
これは他の少年漫画には見る事のできない静かで論理的な距離感であり、本作を唯一無二のミステリとして確立させるものです。