翠緑のエクリ

神奈川県在中。主な関心は哲学、倫理です。

【感想】センスオブワンダーと哲学的深みを持つ傑作SFーアンドロイドは電気羊の夢を見るか

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SF小説の定義には諸説あります。古いものでは、1948年頃にロバート・A・ハインラインが私信で「ScientiFiction」という用語を使用しているようです(※1)。


アメリカではポップカルチャーや低予算B級映画との関連付けが強調された時期もあり、サブカルチャー、アイデア小説、本格的科学考証など様々な要素を含んだ言葉として人口に膾炙しました。日本では「空想小説」と訳されたこともありました。


厳密な定義は難しく、シェイクスピアやオデュッセイアをSF小説の一部と見なす人もいます(※2)。

 

ロボット・人工知能の倫理規則を広めたアイザック・アシモフの定義はユニークです。単にエイリアンや宇宙船が現れるのではなく、読者の既存の価値観を転倒させ驚きを与える、「sense of wonder」こそがSF小説の要だと」述べました。

 

その意味で、本作はSF小説らしい驚きや未来、アイデアに溢れた作品です。そして、「人間とは何者か」という古典的テーマを追求する、伝統的なSF小説でもあります。
小説としての面白さと、哲学的深みの二つを併せ持つ傑作SF、それが「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」です。

 

「動物を飼育する社会的ステータス」という斬新な舞台設定

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の舞台は、第三次大戦を経験した架空の未来です。地球は放射能の汚染が進みつつあり、人類の多くは「天国や植民惑星に移住を済ませてしまって」います。


生物のほとんどは絶命しており、地球へ残ることを選んだ人類は、放射能の汚染が進むことにより、「適格者(レギュラー)」から「特殊者(スペシャル)」への烙印が押されることへ怯えながら、人口の動物と共にひっそりと暮らしを続けています。この世界では、機械ではない天然の動物は非常に貴重であり、天然動物を飼育することは大変な社会的ステータスでもあります。

 

ある出来事から、自身が飼っていてた天然の羊を死なせてしまったリックは、天然動物を飼いなおすため、莫大な懸賞金の掛けられた8人(8体?)逃亡アンドロイドの捕獲を狙うという所から物語が始まります。

 

性格検査を巡る緊迫したコンゲーム

この小説の面白さは、第1にこの8人のアンドロイドとリックのコンゲーム(頭脳戦)にあります。


指名手配中のアンドロイドは「ネクサス6型」と呼ばれる最新のアンドロイドであり、姿かたちはもちろん、動作や思考があらゆるレベルで人間と遜色なく製造されています。
人間とアンドロイドを区別する唯一の指標である「共感能力」を審査するために、人類は「フォークト=カンプト検査法」という性格検査を編み出しました。


しかし、この検査法を用いて接近した主任賞金稼ぎは、ネクサス6型に返り討ちに合い負傷してしまいます。
高度な知能を持ったネクサス6型たちは、人間と同等以上の社会的ステータスを得たり、芸術的感性を発揮し、もはや本人にも人間とアンドロイドの区別が付かないほど社会に適応しています。アンドロイドが逆に人間たちに検査の受診を進めてくるなど、彼らと関りを続けた人間は、自身がアンドロイドである可能性を疑い始めるほどです。


そして、当のアンドロイド達も、自身が人間であるか機械であるか、その存在に悩みを抱えています。

このような存在に、果たして性格検査による分類がどれだけ有効なのか、はっきりとした根拠はまだ示されていません。一歩間違えれば、誤って人間を撃ち殺してしまうかもしれない不確かさ、そして油断すれば判断に迷った隙にアンドロイドから殺されてしまうかもしれない恐怖、個性豊かなアンドロイドたちとの駆け引きとサスペンスが、この小説の一つの軸となっています。

 

終末的地球における宗教と共感(エンパシー)

本作のもう一つの柱が、人間のほとんどがいなくなった郊外の集合住宅に住む「特殊者(スペシャル)」のイジドアです。精神機能テストの最低基準も満たせず、社会的落伍者の烙印を押された彼は、地球の超人気コメディ番組である「バスター・フレンドリー」を観ること、そしてこの時代の神である「マーサー教」教祖との共感体験を得られる「エンパシーボックス」を使って自分を慰めることが生活の糧となっています。


イジドアは、逃亡アンドロイドとの接触の後、自らが信じるバスター・フレンドリーと、マーサー教の真実を知ることになります。

 

生きることは「人間である」ことか?「アンドロイドである」ことか?

賞金稼ぎであるリックは、フォークト=カンプト検査法の有効性を信じ、あらゆる手段で人間を出し抜こうとするアンドイドたちの正体を、次々と見破っていきます。しかし、アンドロイドの捕獲を成功させれば成功させるほど、人間とアンドロイドを区別するものがなんなのか、彼には分らなくなっていき、やがてアンドロイドの捕獲(殺害)をあきらめるべきではないかと考え始めます。

 

反対に、信仰の世界、仮想の現実の中で生きるイジドアは、アンドロイドとの接触を通じて、人間とアンドロイドの相容れぬ特性を自覚するようになります。

 

交錯する二人の物語を通じて、アンドロイドとの関わりに、どのような決着がつけられるのか。それは、神や宗教、機械といった人工物との関わりを通じて、人間が自分たちの存在をどのように自覚するかの物語でもあります。

 

本作が、発表から現在まで、長く読み継がれる古典として存在するのは、このような「人間」への問いを追求する物語だからではないでしょうか。

 

それでも人は電気羊を追う

性格検査という不確かな武器を使った、個性的なアンドロイドたちと人間のスリリングな対決。「ムードオルガン」や「エンパシーボックス」といった、現代を彷彿とさせるユニークな舞台装置の数々。そして人間と人工物の境界というテーマ性は、本作をエンターテイメント以上の深みを持った作品に仕上げており、SF小説の最高傑作と挙げる人がいるのも頷ける内容です。

 

物語の結末をハッピーエンドと見なす人も相当いるようですが、人工知能の存在がより身近になり、宗教の価値が見直されつつある現在において、あのような結末がどのように受け取られるのか。


一読者として非常に関心があります。

 

※1 www.jessesword.com/sf/view/210". Retrieved on 2007-02-02.

※2 Nabokov, Vladimir Vladimirovich (1973). Strong opinions. McGraw-Hill. pp. 3 et seq. ISBN 0-07-045737-9.